神様のおかげの実感とそのお礼の精進



  昭和五十四年二月二十四日  朝の御理解

御理解  第六十一節  「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をして行くのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても神より上になるとは思うな」

  尽きぬおかげを話にして残しておくと、尽きぬおかげをいただく為に、金光大神の信心を頂いておる者は焦点をおかなければいけないと思う。ところがなかなかその尽きぬおかげが、どの辺からか尽きてしまう、どういうことだろうかと。

  これは御理解  百節にもございますように「目出度目出度の若松様よ、枝も栄える葉も繁ると言うではないか」と生神金光大神は家繁昌子孫繁昌を教えるのじゃ」と。
  確かにその道を習いその道を頂いて、まあ繁昌のおかげを頂いた。大変な御比礼を受けたけれども、二代になって三代になってそれが段々裾細りになってくると言うのはどういう事であろうか。教祖様が嘘の教えをしておられるはずはないんだけれど、どの辺から間違って来るのであろうか、と私は思うのですけれども。
  神より上になるとは思うなと仰せられる、神より上になるような心が、いつの間にか出来てくるからではないでしょうかと。
  例えば教会に致しましても、まあ「親先生のおかげで助かりました」とね。
  本当に親先生のおかげで助かる、そすとその親先生がね、本当に私の信心によって、私の修行によって人が助かっておるかのような錯覚に陥ってくる。この辺が私はおかげ落としの元になるような気がするんです。これは普通一般の教会でなくてもそうですね。
  もう先代はそれこそ名総代で御用も頂かれてずいぶんおかげを受けられたけれども、二代になったら信心が絶えたりして、そして今どこにござるじゃろうかと言うように、その行き先もわからんようになっているといったような、私の知っとるだけでもいくらでもあるんです。そんな事があってよかろうはずがないね。私が御用をした、私がおかげを頂いた、あれは私が・・と言ったような、言うならば「我」と申しましょうかね。私が修行したからというその「親先生のおかげで助かりました」「いやあ、そんなこっちゃない神様のおかげだ」とこう言いよるけれども、いつのまにかやはり自分が徳を受けて、自分が修行さしてもろうたから人が助かるんだ、と言ったような間違った思い上がりが出来てくるところから、私はそういう言うなら落とし穴があってそれに落ち込んでしまうのじゃないだろうかと。だからもうどこまでも神様のおかげでと言う面がいよいよ強うなってくるおかげを頂かなければならないなあとね。
  それにはどうでも言うならば、人に真の信心をさせる、言うならばお導きをしてその人が助かる、それを私がお導きをしたと言うのではなくて、日頃頂いておる御礼のしるしだとね、もうすべてが御礼のしるしだと言う事になったら、私はおかげをおとすような事がない事になってくるんじゃないだろうかと。どういう例えば人が助かる、ならここに沢山の人が助かる、今それこそ合楽理念を持ってすることのすざましさと言ったような事を昨日の月次祭のあとの教話に頂いたんですけれども、そのすざましいまでのおかげの働きというものがね、私がそういうすざましいおかげを皆さんに渡しておると言うのじゃなくて、そういう神様の働きが身に感じられる、それはどれだけの人が助かっても、只神様への御礼のしるしだと。
  御礼のしるしにここに座っているんだ、御礼のしるしにお取次させて頂いているんだ、助かった、これも御礼のしるしだと思うて行けば間違いがない。そういう意味で三代金光様の御述懐のお言葉の最後のところにありますようにね「有難うて有難うて、毎日その御礼の足りないお詫びばかりしております」と言うところがございますよね。だから本当に御礼のしるし、しかもその御礼でもまあだ足りないと言ってお詫びをしておるといっておられます。

  この辺の徹底した信心がなされていく限り、いよいよ本当に子孫繁昌家繁昌ということになってくるのではなかろうかと、これは私自身もまあだ模索中なんですね、どうでも金光大神の言われた事、教えられた事を実証して行きたい、その実証者になりたい。そんなら御理解  百節にもあるように子孫繁昌家繁昌の道を教えるとおっしゃるその道を日々行じておる、おかげで大変な盛んなおかげを頂いた。ところがこれが子に孫に伝わっていく時にも繁昌のただ一途を辿っていくほどしのものでなからなければ金光大神のいわゆる子孫繁昌家繁昌の道を体得したという事にはならん。だからどんなに繁昌してもおかげを頂いても、まあ有難うて有難うてその御礼の足りない、どんなにおかげを頂いても御礼御礼であるし、その御礼の足りないお詫びするという謙虚な信心が出来てくる時に、神より上になるということではない事になるのじゃないだろうか。「いや、そげん神様より上になるとは思わん」と言いよるけれどもいつの間にか神様より上になっとる。
  神様が下さっておるおかげでも、まるっきり自分が信心したから、修行したから受けたかのように思うておる。いかにも、言うならばおかげを自分が取次いだように取次者の場合ね、私の信心によってあんたが助かった。成程信者は親先生、あなたのおかげで助かりましたとこう言うてもね、取次者はここで言うなら「神様、あなたのおかげで氏子が助かります」という事になる、助ける力なんかがあるはずない。けれどもいつの間にかやっぱり私も大分偉くなったものだなあ、私のおかげでどんどん人が助かるごつなった、というようなものがどこかにこうね、垢のようにしてついていくのではないだろうかね。そこで御礼だけを言うとるだけではない、その御礼の足りないと言うところ、その御礼の足りないお詫びばかりを致しておりますというね。なら  これは皆さんの場合、これは私のやり方がよいから商売が繁昌しよる、私は人と違ってなかなか理詰めようやっていくからお金が残りよる、そういう考え方がある限り二代には続かんです、三代には続かんね。もうとにかく神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのであり、神様のおかげとそれを  百実感するなら  百の御礼が出来なけりゃならんのだけれども、百の御礼が出来ない。そこに御礼の足りないお詫びばかりをと言う謙虚な信心が生まれてくるんです。どれだけの事をしてもですね。

  私はよく尋ねられますですね、合楽教会が段々繁昌していっておる。なら私の親教会は三井教会である。その三井教会、親教会に対してあなたはどういうように考えておられるかと、まあ合楽の評判が悪い一つは親教会に尽くさない、とか御本部に尽くさないといったようなことが大体評判の悪い元になっているようです。けどね私はね、もう本当の親孝行がしたい、この一念です。合楽理念の根本は親孝行にあると言われるのですから私がこれを外したら、だから親孝行と言うのは撫でたりさすったりする親の思いに添うていくという事だけが親孝行じゃないね。それも親孝行でしょうけども、より本当な親孝行をいつも考えておるから一般の人が見ると、あちらは親孝行が出来んというふうに言うわけですね。
  例えば出社である合楽教会はね、言うなら三千坪もその上もあるでしょうかね、ようなところに大きなお広前を建設してね、親教会である三井教会はそうではない。これで親孝行と言えるかと。普通一般でなら言えるかもしれませんね。
  私のこれは両親の場合でもそうでした。私がお召しの着物を着るときは父は銘先でした、私が銘仙の着物を着る時には父は木綿ものでした。私が純毛のシャツを着る時には父はいつもメリヤスのシャツでした。私が純毛の最高の何とかと言うあ々いうのを着せてもらうごとなったら初めて父は純毛のシャツを着るというような、私は買うて与えれば与えれるのだけれどもね、それでは撫でたりさすったりする事じゃない、けれども私の両親はさあ肩が凝るの手足を揉んでくれと言う事がない。九十いくつまでなかったんですからね。
  これは私のより本当の親孝行に神様が免じて親にはそういうおかげを下さったんじゃないでしょうかと私は思いますね。

  親教会に対して大坪先生はどう感じなさいますかと。これは例えば私がどれ程しの御用が出来てもね、言うなら三井教会にです、何かと言う時にはもう本当にそういう時にはもうつういっぱいのおかげをいただきたいとわたしはおもうのです。そりゃあ三井教会なりにですよね。だからどれだけ私が三井教会におかげを頂いても頂いても、もうこれで言うなら御恩返しが済んだと言ったような思いはさらさらない。どれだけの御用ができたにしてもそれは元金の利払いぐらいのもんだと私は思うとるしいうふうに答えます。
  だからもう尽きる事がないです。どれだけ御用が頂けるようになっても親教会に対してはまだ利払いなんですね。とても合楽と三井教会がある限り言うなら元金が支払えたと言うような事はない、と言うふうに私は答えるんですけれども、また事実私が亡くなってもそれでなからねばならないと思うですね。だから親孝行の見地が違う見方が。この辺に私の話に矛盾を感じる人があるかも知れませんけれどもね、どこまでも言うならば御礼の足りないお詫びばかりをしておるという謙虚な信心をいよいよもって作っていかなきゃならない。
  どれだけの事が出来てもそれで元金が払えた、もうこれで御礼は済んだというような思いではなくて、その足りないお詫びばかりをしておるという心の状態そういう状態を育てていくという事が神より上にならんという信心ではなかろうかと言うふうに、私もまだ今、模索中ですからそう思うんです。どうかなして親の代よりも子の代、言うなら金光大神がおっしゃる家繁昌子孫繁昌につながっていくようなおかげを頂き現して教祖金光大神のお言葉の実証者になりたいというふうに思います。これがね、も本当に私のおかげじゃない、私の力じゃないと思ういろんな事があるんですよ、こげな事はとても人間業で出来ることじゃない、してみると神様の御働きだな、神様の御演出だなと、そんならおかげも一切神様が下さるものであって私なんかがそこに介入するというような事があってよかろうはずがない。それはお取次という介入は致しましてもそれは御礼のしるしにさせて頂いているんだという事になるのです。

  昨日の御教話の中に始めの間に申しました、昨日はお年寄りのことばっかり、昨日一日の御礼のお届けの中からいろいろ皆さんに聞いて頂いたんですよね。
  昨日福岡から参って見えます白水さんという方のお爺さん、もう相当の年でもう医者は難しいと。白水さん自身がもう本当に自分ながらびっくりするようなおかげを頂いておる実感を、そのお爺さんがもうだめだと言われるけれども何とかしてと言うところでこの前の月次祭十八日の日にお取次頂かれとった。医者はだめだとこう言う。だからお家では仏壇を買い替えられたか買われたかして、とにかく「さあ亡くなった、さっ仏壇」というように仏壇の用意までしてあったと昨日聞いてから私はびっくりしましたね。それが、枕元に御新米を置いておけと私が言いましたからその通りにしておったら、ふと気が付かれてそこにある御新米に「これは何か」というふうに言われる。「これは御新米」「んなら頂かせてくれ」と言うふうに感じるから頂かせた、そしたらやっぱり頂きなさった。それからもうそれこそ丁度二十三日の月次祭ですね、昨日退院のおかげを頂かれて、孫たちに手を振って挨拶される位におかげ頂かれたという話を致しました。
  田中のり子さんのお母さん、もう九十五か六ですけども、此の方も大変強い方でしたけれども、もう今度はいよいよだめだろうというお届けでした、もう九十六にもなるから。
  けどもま、どうぞよろしうとお願いがしてあったのが、昨日は電話がかかってきて来てから、もうまた元気になって起き上がっておかげを頂いておるという御礼のお届けが昨日月次祭前にございました。
  これも福岡の古屋さん所のおばあちゃんが一週間位前、丁度九十九のお誕生日のお礼お届けがありました。はぁ強いんです、今古屋さんは病院に行っとられますから家で一人でおられるんです。一人で御飯を炊いて自分で何でもなさるんですね。だから院長さんの許しを頂いてあのお婆さんも一緒に見えれば何にも用意せんでいいから部屋はあるからと言われるんだそうですけれども、いやぁ私は家で一人でやった方がよかと言われる位にもう間違いがないんです。そのお婆さんがお誕生を迎えられてから何日目からか一寸態度が変になったり、言われる事がおかしい事ばっかり言われる。いわゆるぼうける。それですぐ電話でお取次を願われましたら、もう本当にお取次の有り難さに恐れ入りましたと、もうあくる日から元の元気に戻られておかげを頂いておりますというお届けがございました。
  これも昨日久しぶりに参って来とられました林さんのお母さんですが大塚さん、もうあちらも八十五位なられましょう、昨日はそのカイロの灰を畳の上に落としておって、そのまま気付かずにもうあわや火事になるところだった。ところが子供が気付いて、ま大事に至らずにおかげ頂いたと言うて昨日、夕べの月次祭に親子で御礼参拝があっとりました。

  と言うようにね、例えばここでの場合はね、一つのそういう傾向ですね。
  病人のお届けがあると、さぁ-っと病人のお届けがある。人間関係の事は、今日はもう人間関係のことばかりであった。今日はまあ御礼御礼のお届けばっかりだった。今日はまあ本当に聞いておっても本当に涙が流れるような苦しいお届けばっかりじゃったというようにね続くんですね。
  そういう時に私が思わせて頂くのは、とてもとてもなら私が今日は病人ばっかり参って来い、明日は金銭関係の者だけがと言うて決めるわけにはいかんでしょうが、ね。
  神様がね、助けたいの一念がそういう働き、そういう傾向が合楽にはあるんです。ですからね神様の働きと思わずにはおれないわけ、だから私が取次いだからじゃなくて助けて下さったのは神様だという事になるんです。ですから私の信心によって人が助かったなんて思うてはならんと思いよるけれども、親先生おかげで助かりましたと言うとやっぱり一寸そういう心が起きてくる。はあ私の修行によって皆がたすかっておるんだといったようなものがどこかにある。そこでです、どれだけ助かってもどれだけおかげを頂いてもこれは言うならば御礼のしるしであるという事にならんといけないね。
  私がこのようにおかげ頂いておるその御礼のしるしに、だから問題はおかげの実感がなからなけりゃ同じおかげであってもね。なら昨日の大塚さんところの火事であってもそう、最近お参りがないからおかしいなと思いよったら、昨日久しぶりで参ってきた。それも家で突発的にそういうような火事になろうかといったようなおかげを受けたから、昨日嫁とおばあちゃんとが参ってきておる。それよりか日頃お護りを頂いてる方がもっとすばらしいおかげを受けておるんだけれども、何かがあってそれを未前に防げたという時だけに有難いといったような有難さではもうつかの間の有難さになるんです。今日もお生かしのおかげを頂いて、今日も平穏無事であったという事の中にどれ程しの神様のお働きを頂いての事であったか、という事がわかるような信心ね。
  そのおかげがわかる。おかげがわかるから百よりも千、千わかるから千の御礼ができなきゃならん。ところが実際は出来ませんところにですね、その御礼の足りないお詫びばかりをと言うこの「お詫びばかりを」というところに信心が徹して参ります時に、もう私というものは、いわゆる私という介在がなくなってくるんじゃないかと言うふうに思うんです。
  皆さんも一つ御礼の足りないことに気付いていく程しのおかげをまず実感しなさい。そしてどういう御用させて頂いてもそれはどこまでも御礼のしるしだと思いなさい。只御礼のしるしだけではいかんから、その御礼の足りないお詫びばかりをしております、と言ったようなところになった時に初めてね、神より上にならんですむという信心が頂けた事になるのじゃないだろうか。そういう信心で行くならば間違いなくね、教祖様がここに教えておられますように、尽きぬおかげをという事になるのじゃないでしょうか。

  親の代よりも子の代というふうに言われるが、その通りの実証をしていく事が出来るのではなかろうか。これはまあだ私も一生かかりでここんところはどうでも私の代よりも子供の代、孫の代と繁盛していく手立てというものは他にもあるにちがいありません。だからいよいよそこんところに焦点を置いて信心の稽古をさせて頂くわけですけれども。

  本当に神様のおかげ、神様の働きとおもわずには言わずにはおられない。言うなら例えば昨日ね、お説教の始めに申しましたように、今日は何かお年寄りのお話ばっかりですね、と言うのがお年寄りのお届けばっかりだった、続いてから。しかも九十いくつといったようなお話ばっかりじゃったと。そこにです神様の特別なそれこそ不思議な不思議な働きをそこに感じますね。その感じる度合いがおかげを受けておるという事になるのです。それが数倍人よりも強いおかげの実感です。そこで御礼のしるしにという事になり、その御礼のしるしにしよるけれども、ほんのしるしであって足りない、足りない、その足りない言うならばお詫びばかりをしておると言う。この辺の所が私のまあ実感的に本当にお詫びのしるしといったような信心が出来ませんけれども、この辺のところをこれからの信心の言うならばめざしとも焦点ともして行かなければならんと思うています。


                                                  「どうぞ」